9月ですが、夏ですね・・・。でも、秋のモードmode、つまりは読書の秋、思考の秋に、そろそろ気分を変えていきたいところです。
近日中に、朝日新聞のマリオンのコーナーに、自主ゼミの案内が掲載されるとのこと。ちなみに「週刊金曜日」には、先週号に掲載されていますが、そうしたこともあって、自主ゼミの内容について、すこし触れます。
福澤諭吉の『文明論之概略』は、さまざまな示唆に富む名著だと思います。これまで丸山眞男や子安宣邦といった学者さんたちが、この本を読み解き、その意義を知らしめてくれましたが、そもそも福澤諭吉は、人びとが生活する社会を、どんなふうに捉えていたのか。これまで福澤について、おおくは<国家論の文脈>で論じられてきましたが、そうではなしに、世のなか、つまり社会をどう見てきたのかに焦点をおいて、今回お話をすすめていこうと考えています。
よく電車などで、大声出して携帯電話で話している人や、電車の乗降口を学生たちが荷物を置いて場所ふさぎをしていることがあります。
こうした行為は、マナーが欠けているとされるものですが、いわゆるみんなが平等に利用する場所での私的独占とは、「公共性」を侵犯するものと見なされています。現在の社会は、いわば私的権利が、生存権も含めてひろく認知されています。ならば「公共性」とは、そうした「私的権利」を超えるものなのか。
それと、最近、流行っている「コミュニティ」という動きについても考えてみたいと思っています。フェアトレードやエコロジーの「コミュニティ」、ブログやツイッターで結びついている「コミュニティ」。そうしたさまざまな「コミュニティ」が、最近流行っています。それでは、こうした「コミュニティ」とは、どんな人たちが参加して、どんな団体なのか? 「コミュニティ」はひらかれた空間なのか、閉じられたものなのか? その集まりは「私的」集団なのか、あるいは、そこにはどんな目的があり、社会の「公共性」といったものとどう結びついているのか?
そこで、福澤諭吉の「社会論」をお話しするだけではおもしろくないので、それを梃子にして、いまわたしたちの身近にある集団が作り出す「公共性」や「コミュニティ」のある状況を、あるいはその底流にある「社会性」について、この講座で考えてみようというわけです。
1995年地下鉄サリン事件を発生させた「オウム真理教」も、カルト宗教と断罪されたものの、一種の「コミュニティ」にはちがいなかったと思います。それが真理を主張し、肥大化するなかで、それと対峙する「公共」なるものと対峙していった経過は、きわめて重要な問題を孕んでいるように思います。いったい「公」と「私」という境界はどこにあるのか。
テキストtextとして使うのは、『文明論之概略』(岩波文庫)だけです。初講日には、その本だけを用意していただければ、けっこうです。受講希望の方は、よろしくご用意をお願いします。
上記の講義の前には(17時40分から19時10分まで)、ハンナ・アレント『人間の条件』(ちくま学芸文庫)を、受講生自身の発表形式で読み進めるゼミも行います。こちらのほうに参加希望のかたも、ご連絡をいただけると幸いです。
上記のゼミ(福澤諭吉『文明論之概略』を読むと「公共性」について)の時間は、19時30分から21時までです。
*二講座連続受講の方は別として、お間違えのないようにお願いします。