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2009年12月31日 (木)

2010年 新年の手紙

 2009年一年、おつきあいいただいた皆さんへの感謝を申し上げるとともに、2010年の新年の手紙をおくります。

 ちょうどいまから10年前、詩人茨木のり子は、『倚りかからず』という詩集を出しました。そこには、こんな言葉の詩がありました。

 倚りかからず

もはや できあいの思想には倚りかかりたくない

もはや できあいの宗教には倚りかかりたくない

もはや できあいの学問には倚りかかりたくない

もはや いかなる権威にも倚りかかりたくはない

ながく生きて 心底学んだのはそれくらい

じぶんの耳目 じぶんの二本足のみで立っていて

なに不都合のことやある 

倚りかかるとすれば それは 椅子の背もたれだけ

 2010年がいかなる時間を地上に降らすのか。それは、まったく予想もつかないことです。それは、個人個人によって違うだろうし、砂漠に住む民と海辺の民、極寒に住む人びと、都市の地下鉄のホームで、あるいはビルの狭間の路上で凍える冬をむかえる人びと、戦火のなか、やっと灯った蝋燭の炎にささやかな安息を迎えている人びと、それぞれにおいても、その時間はきっと異なったものであるでしょう。

 ただし、未来という時間は、そうしたすべての人びとに、平等にやってきて、否応なしに、ならば、その時間をいかに過ごすか、と聞いてきます。いわば時間という概念には必然的に、そうした人生的な哲学が先験的に宿っているものです。

 『倚りかからず』という詩には、人は、できあいの思想や宗教に引き込まれ、学問の権威にあこがれ、権力に添い遂げることで、自己の欲求を満足させようとするのではないか。それが穏やかに鋭い言葉となって表出されています。そして、茨木のり子が、見切ったのはそうした1999年という時点での「この国」の現実だったのだと思います。

 それから、すでに10年。毎年わたしたちは新年をむかえるたび、いったいどんな未来の時間を消費してきたのか。10年前に描いた未来とは、わたしたちにとって、どんな現実となっているのか。

 思うに、こうして新年をむかえるたび、今年こそ憎悪や差別が薄れ、飢えることもなく、「戦さ」もなく、人を殺すこともなく、平穏でさらに自由で、みんなと感激を分かち合えて、手を取りあって行動し、ともに微笑みあえる未来がくることを祈りつつ、やはり過去をたどれば、悲しく苦渋に満ちた現実が一方で大きな闇となって、ぱっくりと口を開けている現実を思わざるを得ません。

 そして、 「倚りかからず」という風に、人は生きてこなかったのではないか。

 2010年とは、21世紀となってその10分の1を使い切ったということになります。そして、このあとの10年、人びとは、またその未来をどんなふうに希望し、どんなふうに過ごしていくのか。

 いずれにせよ、2009年にさまざまなかたちで、おつきあいいただいたすべての方々に、輝くような2010年という時間が訪れますことをお祈りいたしますと同時に、これからもよろしくおつき合いいただけますこと、そして、さまざまな矛盾や困難をともに考え、行動に結びつけられますように、2010年もよろしくお願いいたします。

                                             八柏龍紀 

                                                            

                                                                                                                                         

 

12月 31, 2009 0. 緊急のお知らせ, 4. エッセイ |

2009年12月13日 (日)

12月14日は自主ゼミ最終講です!

 連絡が遅れまして、すみません。

 明日12月14日は、自主ゼミの最終講義(第10講)となります。これまで論考してきた「平和」という思想を、再度検証しつつ、その可能性についてお話しいたします。

 もう30年くらいにもなりますでしょうか、「揺らぎ」だとか「脱構造主義」、「ニューアカ」なんかが流行っていたころから、「思想」なんてものは、大学での「おたく」教師のファッションとでもいうべきものに堕してしまい、マジで「思想」の意味など考えようというのは、「重く」「暗く」「臭い」などとされてきたようにも思えます。その間に大学などで語られるものは、マックス・ウエーバー的に言えば、資本主義の「鉄の檻」に囲まれた「商売」的なスキル(=技能力)がもてはやされるようになり、危機に対処するありようも、その根幹を見極めてというより、対処療法的なものが、えらく中心的に膨張したように思われます。ま、それはそれでいいのかも・・・ですが、ぼく自身は、「そんなんで、いいのかな」とぼんやりと思い続けてきました。

 まして「平和学」なんかは、下町に住んでいた連中が、いきなり山の手高級住宅街に住むことになったみたいに、えらく「お高い」学問みたいだったり、実感のない、「学問する学問」みたいな感じで、まぁ、ヒマな人がやるんだろう的な感覚をいだいた向きもあるかもしれません。

 でも、これまで9回ほどの講義を積み重ねるうち、やはり歴史はその前景化された思想的営為を光として吸収し、変容してきたんだという思いが強くなりました。今回の講義でお話しした、ジョージ・オーウェル、ユマニェル・カント、マーティン・ルーサー・キング牧師、エドワード・サィードなどの思想を追うと、歴史性とともにその思想が、けっして「現在」という地点に留まらず、未来へとつながる駆動力を内燃エンジンのように備えているのがわかります。それも、高見からのものではなく、人とのつながりである他者性の問題、過去をどうとらえるかという記憶の問題、自分をいかに振り返るか、自分たちの未来には何があってほしか、何があってほしくないのか、そうした日常的であっても、いまにとどまらない動きのある思想が見えてくる印象を持ちました。

 明日は、いよいよ最終講義となります。扱うテクストはヨハン・ガルトゥングのものですが、それを一つの基軸としつつも、これまでの講座をもう一度振り返りながら、受講生の皆さんのご意見などお聞かせ願えればと考えています。

12月 13, 2009 0. 緊急のお知らせ, 2009年度自主ゼミ |