講演会のお礼と第九講について
6月7日の雨宮処凜さん、辻元清美さんとの講演会には、多くの方々においでいただき、ありがとうございました。また、学生スタッフのみなさんの企画運営もたいへんよかったと思います。当日は、お疲れさまでした。
今回の講演で、わたし自身話しながら感じていたことは、「働く」ってことは、どんなことなんだろうかということでした。労働の対価として金銭を得、それを生活の糧とする。その労働への対価が、ここのところ劣悪な状態である。社会的弱者が増産され、その苦境から抜けきることが出来ず、忍従の日々を強制されている。その地点への問題意識から、先日の講演会は、その意識の共有と、その脱出の方途の模索のためにあったのだ、ということはまったくその通りなのですが、では「働く」ということは、生活するための経済的な領域に止まっている問題なのだろうか、という疑問を、あの会場でわたしはずっと抱いていました。
わたしがそこで考えていたことは、「働く」ということは、その個人が自らの肉体や精神というものの活動を表現手段として媒介させながら、自己を取り囲む「社会」、でなければ「周囲」への時間的空間的な「働きかけ」をすることにこそ、意味があるのではないかということでした。わたしが見るに、請負や非正規労働の搾取の最大の「罪責」とは、この地点にあるように思うのです。労働の対価あるいは評価が、金銭に換算されること自体、マルクスのいう「人間疎外」に外なりません。人々が、自己の暮らしの生命維持としての「労働」に埋没し、思想をその地点から構築していく愚かさを、ハンナ・アレントは「活動」という言葉で対置しながら語っていますが、現代的ハイパーエコノミズム(超金融市場利潤成果主義とでもいうべきでしょうか)のパラダイムにばかりとらわれている「労働」の問題に、人間があるべき志向性とわれわれを柔らかく包み込む環境という視点を注ぎ込む必要を、わたしは感じ取っていた次第です。「働く」ということは、文字通り、われわれの外に「働きかける」ことではないか。そうした言葉の真の意味に、「労働」という言葉を再生させる必要を感じていました。
そう考えると、企業が広告宣伝、企業イメージのため、環境を意識している、そのための援助をしているという現在的なありように、わたしは強い違和感をもっています。ほんらい、こうした問題は、企業の活動から切り離し、何も対価を求めず、拠出されるべきものじゃないかと考えます。こうした功利主義的発想は、個人の人間としての「活動」を無意味化させる企み以外の意味をもちません。
ところで、話をかえます。自主ゼミも6月16日で第九講を迎えることになりました。ここから戦後の「特攻」への言説を論考することになります。大熊信行は『国家悪』のなかで、日本という国家および日本人個人の身体の襞にまでしみ通っている、思想的な無責任と一過性的な非歴史性を追求しています。しかしながら、大熊の鋭い批判は、なんども同様な批判がくり返されてはいるものの、なかなか定着していないのが現在の状況のように思います。第九講以降は、批判は批判として、なぜ批判性が時代の転化点を形成しえないのかの問題を、丁寧に論考して行ってみたいと思います。最終講義まで、あと数回を数えるのみです。受講生の方々には、これまでの講義や論考をふまえて、さらなる思考性を模索していただければと存じます。
6月 12, 2008 0. 緊急のお知らせ, 2. 東大自主ゼミ講座 | Permalink




