« 講演会のお礼 | トップページ | 自主ゼミの教室の件 »

2008年4月 8日 (火)

自主ゼミについて

 4月に入って、世の中もなんとなく動き出した感じです。それにしても最近交通機関の人身事故の多いこと・・・。春になると何かと偶然性(accident)が人間を支配する運命なのか、その点はわかりませんが、いずれにせよそれぞれの学校で新学期が始まり、新入社員が同じようなスーツを着て集団で右往左往したり、新歓コンパで酔いつぶれいる大学一年生の姿を見るにつけ、この時期が一年でもっとも「ハレ」の日々なんだなと思わざるをえません。

 ところで自主ゼミは4月14日に初講日を迎えます。今回の講座は『「特攻」という課題』というものですが、戦時中の「特攻」作戦の解説、いわば「特攻」の歴史的講座ではないかという問い合わせをいただきました。

 ことわっておきたいのですが、この講座は「特攻」の歴史的な解釈を講義するものではありません。むしろテーマに「課題」と入れたように、戦時中に行われた「特攻」という作為が、その作為性に内包された問題性をしっかりと認識することもないまま、おざなりにされていることをまずはふまえて考えたいと思っています。そして、戦後になって経済至上主義の社会が「富国強兵」政策と変わることなく形成され、その結果、現在においても散見するように組織が個人を圧倒し、個々の感情や情緒までを「空気」としてとりこんでしまっている現実を論考することに目的があります。

 たとえば以前から問題となっている過労死の問題でも、企業責任が明確にもかかわらず企業はなかなかその事実を認めようとはせず、組織の論理で個人を圧迫しようとします。そこには組織に頼っていれば安泰だという信仰が大手を振っている現実があり、人びとが組織や集団から離れ個人としていかに生きるべきかという根源的(radical)な問いがほとんど閑却されている状況が見てとれます。

 ハンナ・アレントは、これこそがナチズムを生む温床と捉えました。彼女は『人間の条件』という本の中で、自己の生命維持のためだけの「私的領域」という閉域を超えた「公的領域」を意識させるとともに、その閉域を破砕するものとしての「活動的生活」の意味を提起しています。個人の根源的な問いとは、個人が独占し「私」するものではなく、人間の生存の意味として開かれていなければならない。それがアレントの言う「公的領域」の意味です。「損得」などにしか意味を見いだせない功利性や「生き残り」をかけるなどといった組織防衛的な意図を私的な情緒で粉飾するありようは、個人という根源を亡き者とする企みのように思えます。

 この講座で展開したいのは、「特攻」というものが国家や軍部あるいは世間といった組織性のなかでどのように生みだされ、またその組織性のなかで個人がどのようにつぶされていったのか、あるいは特攻隊員となった個人が、組織の圧迫のなかでどのように変位していったかを基盤において論考するものです。そんなわけで「特攻」の歴史をなぞるわけではなく、また特攻隊員の遺書を「戦争反対」の小道具として立論する意図もありません。以下のような括りは好きではありませんが、歴史社会学的な考察を展開したいと考えているしだいです。

 なお、教室は駒場キャンパスの5号館か7号館になると思いますが、まだ確定とはなっておりません。遅くとも11日(金)には確定すると思います。多くの方々のご参集をお待ちしております。・・・といっても資料その他の準備があり、ある程度の人数になったら、お断りするかもしれません。

 あらかじめゼミ委員の八木くん:akoto.asmy@jcom.home.ne.jpに申し込みを宜しくお願いします。

 

4月 8, 2008 0. 緊急のお知らせ, 2. 東大自主ゼミ講座 |