« 姜尚中氏との講演会について | トップページ | 新年の葉書 »

2006年12月23日 (土)

講演会のお礼と、その前の雑感。

 先日、かつての教え子から、インターネット上の人物事典があることを聞いた。それに、わたしも掲載されているらしい。教え子氏曰く、従来の岩波書店なんかから出ている人名辞典と違って、インターネットの参加者によって記事の内容が作り上げられていくという新しい試みとのことであった。それにつけて、かって学生だったときの卒論ゼミでの一光景が思い起こされた。                                            大江健三郎論をやりたいという学生に、主任教授は君はその論文をどこぞの出版社にでももっていくつもりなのか。ならば、君の評論を卒論として受理できない。卒論は、時代性を背景にその作家の文学的意味を論ずるものであり、そこに限界があるものなのだ。つまり、教授の言い分は、その作家がまだ存命していて、いつその文学的意匠を転換していくのかわからないのに、いまの時点で、その作家を評価したり批評することは、君たちの力量からいって不可能だし、仮に書いたとしても、それはいわば当てずっぽうな勝手な解釈であり、そこに学問的価値もなければ意味もない。相手に嘘だといわれれば、それで終わり。そんなものを卒論として指導することはできないというものだった。

  思うに、個人への評価や批評は、相手の個々の作品や行動に限定されるのならともかく、相手が実存している以上は、全体的なものとは決してなりえない。個人は時代とともに変化をとげ、または反対に変化しないことで、存在しているなかで時代が変わり評価や批評が変更されることもある。ましてや内部告発や権力への対抗手段でない限り、匿名性に隠れてそれらが行われてはならない。それは個人の責任性を狡猾に忌避した単にゴシップ(噂か流言飛語)でしかない(週刊誌などのゴシップ記事は、その責任が発行元に帰すが、匿名に隠れたネット上の誹謗や中傷は、責任性が皆無といっていい)。                                                                               近代社会における個人という概念には、最低限、そうした意味合いが含まれていたように思う。 しかし、ネット社会は、こうしたルールをいとも容易く突きぬけていってしまったようだ。それだけ、個人が軽量になり、原子(アトム)化し、他者のどれとも区別のつかない虚無的な意味しかもてなくなったのかも知れない。教え子氏の話を聞きながら、どこの誰かも知れないインターネットの参加者に、自分自身の何ごとかが評価されたり批評されている気味の悪さを感じてならなかった。                                       もちろん、そんな勝手にされていることまで、わたし自身コントロールできないわけだから、勝手にするがいいや、と思っているが、その一方で、この虚無的で責任性のない、いわば透明人間となって愉悦を貪ろうとする低劣さは、時代といって片づけられない、なにか不気味なものを感じる。

 ところで、そんななか、12月17日には姜尚中氏とわたしとでの講演会がおこなわれた。運営学生の話だと120名以上の多くの聴衆が集まってくれたとのことで、よかったと思うと同時に、講演やデスカッションの内容的にも深みのでたものになったと思う。自分自身いろいろ話しながら、思想の襞を幾重にも突き詰めようとすることで生じる難解さを、いかに平明に伝えるか。その難しさを再確認した講演会でもあった。                   姜尚中氏はじめ、学生諸君、そして当日お集まりいただいた多くの人びとに感謝申し上たい。

 それにつけても、2006年もあとわずかになった。21世紀を迎えて、世情を見渡してみると何やら時間が経つのが早まったような気がする。それが、いそいそと終末にむかっての歩みの早さとは別のものであることを祈りたい。          

 

12月 23, 2006 0. 緊急のお知らせ |

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/519274/42227504

この記事へのトラックバック一覧です: 講演会のお礼と、その前の雑感。:

コメント

コメントを書く