新年の葉書
新年の葉書
飴色のスコッチウィスキーを啜っていると いつのまにか時間は 新年を迎えていた 眼を閉じれば 記憶のうえに 純白の粉雪が 静かに舞っていた
今年は 亥年 十二年まえのこの時は いったい何をねがっていたのか 過去への思いを落とし 未来に願い託す 相も変わらず 人は時間で思考するんだね
夜明けまで あと どのくらいだろうか 数時間もたてば 暗い闇を破るように 空は紫色の雲に染まり 地平線のかなたから 橙色の未来が見えてくるだろう
みなさま、あけましておめでとうございます。昨年中のご厚誼に深く感謝いたしますと同時に、今年もよろしくお願い申しあげます。
わたしの仕事は、いつも言葉に囲まれ、言葉によって成り立つ仕事です。絵画や彫刻などの造形、あるいは音楽などの表現とは多少違って、語られることで表現され、聞かれたり読まれたりすることで受容される仕事です。ある意味、わたしたちの日常生活でのやりとりともっとも融解しあっている仕事といっていいでしょう。 でも、2001年のニューヨークでの9・11テロのころから感じているのですが、あのころから世界は、はじめから言葉を拒否しはじめてきたんではないか、という思いがしてきています。話し合う、お互いの意思を通わすということなしに、いきなりの巨大な暴力で破壊する。政治的対立といったことばかりではなく、わたしたちのまわりを見渡しても、言葉の無力を暴き立てるように、いきなりの暴力が登場し、無関係なもの同士はもちろん、親と子どもの間にも禍々しい暴力が突如として行使される。 わたし自身、ここ数年、言葉で思いを伝えようとするとき、息苦しくてたまらないという回数が確実に増えてきているように感じています。たしかに、言葉は、その人の意図とは違って、他者である誰かを傷つけているのかもしれないわけで、言葉には記号としてだけではない、さまざまな意味行為がともなっています。でも、わたしの感じる息苦しさは、言葉のない世界、あるいは言葉が失われてしまった荒涼とした風景に関わるものです。ちょうど、天上に至るがためバベルの塔の建設をはかった人間が、神の怒りをかい、突然言葉を失い、それぞれがそれぞれでまったく別の言葉しか話せないようになって、巨大な塔が廃墟となり、人類がお互いに殺し合いをするという寓話の恐ろしさに通じたものです。 しかし、そんな絶望的な気分に囚われていながらも、一方で、こうした恐怖がもたらす閉域にとどまっていてもしかたがないなとも感じています。懼れは懼れとしつつ、結局、わたしたちは一人で生きられないように、言葉なしでは生きられない動物でもあるわけで、それがための楽観も許されるように思っています。 2007年がみなさまにとってどんな年になるのか。わたしにとっても何が訪れるのか。それは予想できないことですし、未来はつねに懼れとともなって存在しているかのようです。しかし、そうであっても未来という時間は、現在という時間に必ず呑みこまれます。 ですから、願いますに、すくなくとも言葉がいっぱい交わされ、多少の困難や行き違い、あるいは憎しみが生まれても、言葉がそれを解決するもっとも有効な手段だということを思い続けていくことが大切なように思っています。それが強ばった懼れを解きほぐし、ここ数年世界を覆っている戦争や悲惨を乗りこえる可能性を生むようにも思います。この1年、みなさまが息苦しい思いなどせず、さまざまな困難に解決の方途が導き出されますようにお祈りしております。今年も、お付き合い、よろしくお願いいたします。




