【エッセイ】子どものころの夢
子どものころの夢を覚えているだろうか。少なくても、わたしはいまも覚えている。絵の好きだったわたしは、絵描きになるのが夢だった。子どものわたしは病弱で体力が乏しく、しょっしゅう風邪やいろんな病気で学校を休んだ。そんな日は、一日中、黙って寝ているしかしようがなかった。
病気で寝ているわたしから見える光景。枕元から見るふだんは気づかない不思議な景色。なにか意味ありげに広がる天井の隙間やシミ。人の足に踏まれてツルツルになった畳の輝き。障子が開け放たれ、縁側の向こうに見える外の景色。縁側の向こうには小さな庭があって、いつも同じ時間に、きれいなきつね色をしたノラ猫が通りかかる。そして、蒲団に寝ているわたしと眼が合い、ジッとこっちを視ていたりする。庭には餌を啄みにくる小鳥たち。なかには雀に混じって、鮮やかな黒や緑色などの羽を輝かす名の知れない小鳥もやってくる。そして、風邪の熱と眠りとのあわいで朦朧とするなか、遠くから聞こえる優しげな人の声や蒸気機関車の音。夢かまぼろしか。浮かんでは消え、消えては浮かぶ色や音。
そんな記憶をたどり、気分がよくなると、わたしは、親にねだって買ってもらったスケッチブックに絵を描いた。空想と現実がないまぜになった絵。蒸気機関車に乗るわたし。横にはいつものノラ猫。畳のように輝く平原をまっすぐに伸びるレール。空にはせわしなく飛び回る小鳥たち。そして機関車から吐き出される蒸気の煙。風邪で動けない蒲団のなかで、どんどん広がる想像と自由。
それから、すでに四〇年。わたしは、もちろん絵描きになれるはずもなかった。絵描きになりたくて、家の近くの画塾に通わせて欲しいと親に願ったこともあった。でも、親はわたしの才能のなさを見抜いてか、あるいは絵描きなんぞ先の見通しのない仕事への忌避からか、わたしが画塾にいくことを許してはくれなかった。たしかに、わたしは絵描きになれなかった。でも不思議なことに、いまでも絵描きになる夢をもったことに後悔していない。そして、その夢をもったことを忘れたくはない。
誰でも子どものころには、夢を持っていただろう。きみだってパイロットになりたかったこともあったろうし、あなたもケーキ屋さんになりたかったのかもしれない。でも、「現実」を前にして、その夢は、夢で終わってしまったのかもしれない。いまとなっては、子どもっぽいといって片づけているのかもしれない。
では、いまのきみは、いまのあなたは、どんな夢をもっているのだろう? きみやあなたが思う「現実」を前にして、もう夢を見なくなった? いや、子どものころから、夢などもたなかった?
若者は、いまある「現実」に怯える。つかみきれない「現実」、視ることのできない「未来」に不安を隠せない。きみやあなたは、そんななかで夢を忘れようとしていないだろうか。子どものころの夢を恥ずかしいと卑下していないだろうか。
子どものころ見た夢には、打算や妥協、たくらみ、我欲はない。幼い心に宿った夢には、希望や楽しみ、わくわくするような期待があるだけなのだ。夢が夢である純粋さ。わたしたちは、年をとればとるほど、そういうものから遠ざかる。受験生にしても、志望校、偏差値、学部選択、なにもわからない「現実」を前に、いつも「有利」という条件づけで、自分の進路を決めなくてはならないところに置かれている。
わたしが、絵描きになる夢をもったことを忘れたくない理由。それは、この「現実」のなかで、打算や欲望のない、「有利」さを狙わない、そんな精神を、どこかで宿しておきたいからなのだ。「現実」を前にして怯えるとき、わたしは、ふらりと子ども時代の夢にたちもどる。
注)このエッセイは2001年8月に載せたものを再度寄稿しております。
8月 30, 2001 4. エッセイ | Permalink
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