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2001年6月12日 (火)

【エッセイ】六月雑感

 ボクの好きなジャズ奏者にソニー・ロリンズってプレーヤーがいたんだけど、カレはお天気のなかで一番「曇り空」が好きだと言っていた。……だってこれから雨が降るかもしれないという緊張感(テンション)がたまらないじゃないか。
 それはそうと、もう六月も半ば過ぎ去って、梅雨空のうっとうしい毎日が続き、大学生も受験生も、なんかやる気をそがれて、四月の張り切っていた緊張感がすぅーっと抜けた感じになっているのでは……? どっか遠い国の小説家が書いていたけど、「ひとは一日に何度、こんなはずじゃなかったとつぶやくのだろう。悔恨のつみかさね、それだけが、あなたの体重を日々重くしていく」
 子供のころから思っていたけど、六月は中途半端な月だ。きらめく太陽のなか、すべてが解放されたような夏の前に、無機質に横たわる一ヶ月という時間。春のようなときめきもないし、この時期はたいしたイヴェントも組まれることがない。「ジューンブライト」のシーズンだけど、この時期は長い休暇を取れるわけでもないし、なんか我慢してなきゃといった感じの動きの少ない月。停滞する感じ。思わず「こんなはずじゃなかった」とつぶやきたい月 。
 正岡子規の『墨汁一滴』は、六月に入ると、やたら彼の受験時代の話しが出てくる。大学予備門(現在の東大教養学部って位置にある)に通るために、子規は共立学校という予備校に通った。英語は、のちに首相にまでなり、ダルマ宰相と親しまれ、その後、二二六事件で暗殺された高橋是清から習っている。子規は、幾何の出来も悪かったが英語はもっと出来なかったらしい。試験中、単語の意味が分からず、隣の生徒にひそかに聞いたところ、「ほーかん」と言われたので、「幇間」と解答したというのだからスゴイ。前後の文脈から考えれば、試験に「幇間」は出てこないだろう。 実際は「法官」だった。子規は、『墨汁一滴』の六月の日記に、「学校で歴史の試験に年月日を問ふやうな問題が出る。こんな事は必要があればだんだん覚えて行く。学校時代に無理に覚えさせようとするのは愚かな事だ」と苦々しげに書いている。子規はこの六月の梅雨の時期のなかでけっこう憂鬱だったにちがいない。「余は今でも時々学校の夢を見る。それがいつでも試験で困しめられる夢だ」。
 さて、みなさんの六月は、どんな時間になっているだろうか。六月は、梅雨空のもとで花菖蒲の美しい月でもある。そうして、雨上がりの蒸し蒸した池の畔には、蓮の花がばっくりと花弁を裂いて咲き出す。むしろ雨の中で、六月は悪くない月でもあるはずだ。そして、六月の憂鬱な「曇り空」を、むしろ緊張感(テンション)に満ちたスリリングな感覚でとらえるのも、決して悪くはない。

注)このエッセイは2001年6月に載せたものを再度寄稿しております。

6月 12, 2001 4. エッセイ | | コメント (0) | トラックバック

2001年6月 5日 (火)

【エッセイ】ワイドショーを見る

 なにを隠そう、わたしはテレヴィのワイドショーが大好きである。最近のワイドショーの一番の注目は、「ライオンハート小泉純一郎」で、やれ「田中カクエイ真紀子」女史やら「オトボケ塩爺」などキャスティングの妙もあって、ヤンヤヤンヤの騒がしさである。噂によると、「小泉内閣メールマガジン」はパンク寸前の盛況とか。この旺文社メールマガジンもがんばらねば……。でも、面白さ馬鹿馬鹿しさのゴッタ煮みたいなワイドショーだが、いまの経済状況や教科書問題・憲法問題など、ふと正気になって眺めてみると、笑っている場合じゃないのかもって気もする。
 しかも、最近のワイドショーでは気になる事件が多い。先日東京の西武線で、若者が「もっと詰めてもらえませんか」と言ったことで同年代の若者に駅で暴行を受け死亡した事件や、そのまえに東京三軒茶屋で、電車のなかの口論が原因で、四人の若者によってたかって殴られ死亡したサラリーマンの事件など、とにかくささいなことで巨大な暴力や悪意が発生する事件が多い。
 ワイドショーのコメンテーターの御高説では、それは現代社会のコミュニケーション不足が原因、あるいは現代日本人は肉食中心の食事をするようになった結果、尿酸値(?)が高くなり、キレやすくなった。いや、それはカルシュウム不足だ……。とにかくさまざま、「百家争鳴」。
  肉がどうとかカルシュウムがどうとかは知らないけど、とりあえずは、みんなストレスがたまっているらしく、最近、駅のホームや車中で口論をよく見かける。すぐにムキになるし、すぐに「コノヤロウ」って感じ。率直に言って、もっと「言葉」を使えないのかと思うんだけど、若者に限らず最近話し下手が多くなった感じがする。自分の興味のあることになるとしゃべり散らすんだけど、相手に正確に自分の意志を伝えようとなると、なんかぎこちない。ケータイでの話し言葉も怒っているように聞こえるし、なんか早口。
  そんなとき思い出したのが、昔見たアメリカ映画のワンシーンである。暗闇せまるなか、まったくの赤の他人であるふたりの男が、ヒッチハイクの車を求めて、砂漠の広がる荒涼たる路上に取り残されていた。ヒッチハイカーであるふたりの男は、我先にと、ほとんど通ることのない車を求めて、お互いライバル意識をむき出しにしていた。気まずい雰囲気。一雨きそうな緊張した厚い雲。夜の闇はどんどんせまってくる。そんなとき、なんかの拍子で、片方の男がタバコを取り出しもう片方に勧めた。相手の男は驚きながら、それでもずうっと二人きりで取り残された連帯感からか、素直にタバコをうけとった。おずおずと男がタバコを口に運ぼうとした瞬間、片方の男がマッチを擦って相手のタバコに火をつける。その刹那、二人の顔がタバコの赤い炎に照らされ、優しい笑みがふたりの男の顔に浮かび上がった。二人の男から緊張感は失せ、赤い炎のなかに親密な空気が満ちる。 タバコ一つ、タバコの火一つのことだけ。思うに、言葉がなくても相手に「心」を贈りさえすれば、コミュニケーションはとれる。そう言えば、なんかあって凹んでいるとき、友だちが無言で「飲む?」って顔して渡してくれた缶コーラ。そのとき、ホッと救われた気がしたって、そんな経験のある人多いんじゃない。まずは、相手に対し「ムキ」にならずに「スキ」になろう。
 そんなこんなでワイドショーを見ながら、実は考えることって結構あるものなんですネ。

注)このエッセイは2001年6月に載せたものを再度寄稿しております。

6月 5, 2001 4. エッセイ | | コメント (0) | トラックバック