【エッセイ】Dちゃんの声
予備校の講師を十年以上も続けていると、いろんな若者と出会う。やたら自信満々なヤツ。調子よく「そーっすよねぇ」と連発するヤツ。あるいは、どーすればいいかって頭を抱えるヤツ。彼らにはさまざまな事情があり、さまざまな癖がある。
そのなかにDちゃんという浪人生がいた。本名を知るものはほとんどいなかったが 、Dちゃんといえば知らないものがいないくらい予備校では有名だった。Dちゃんはとにかく日本史大好き受験生だった。山川の用語集はすべてそらんじていて、さらに角川の日本史事典の律令官制表から藤原氏や徳川氏などのすべての系図の細部まで暗記していた。授業になると、三百人くらいの大教室で教卓に最も近い机に陣取り、ボクの話しを一言漏らさずメモし、疑問があれば間髪入れずに質問する。まさにDちゃんの座席の部分だけが「濃い」空間となっていた。
Dちゃんは吃音で声も甲高かった。「セ・センセェー、ちっ・ちがいまぁす」の声が、受験生が寡黙にノートを取っている教室にこだまする。また来たっ……。満鉄の線路幅をごまかすと、「満鉄の軌間は四フィート八インチ半ですぅ」。そんなの受験には出ナイって……。川中島の戦いでは武田信玄の弟が戦死した。「セ・センセー、そ・そっ・それは武田信繁ですぅ」。それは答えなくてもイイって……。Dちゃんは、その有り余る知識を おさえられない。すべてがこの調子だった。
こんなDちゃんを、一部の浪人生は露骨に嫌い、多くは馬鹿にし、ボクは授業の調子が狂うことにとまどった。Dちゃんは、それに薄々気づいていた。いつか、ボクのところに質問に来たとき、Dちゃんは、日本史は好きなんだけど、アメリカに行きたいと言っていた。でも、こっそり事務の人に頼んでDちゃんの成績をみせてもらうと、日本史はどの模試でもほぼ満点だったが、英語や国語の偏差値は四〇前後しかない。日本には日本史だけで入れる大学などはない。
受験の結果、Dちゃんはすべての大学に落ちたという。でも、風の便りだと、その後Dちゃんはアメリカに行ったらしい。英語は大丈夫……? 日本史オタクだったDちゃんが、日本を去りアメリカに行く。日本では、まず周りとあわせることが求められる。Dちゃんは、おそらく合わせられない自分にひどく傷ついていたのだろう。
いまも授業中、ふとDちゃんの「セ・センセェー」という声がどこからか聞こえてくることがある。あれっ、やばい! なにか間違ったかな……。
注)このエッセイは2001年5月に載せたものを再度寄稿しております。
5月 1, 2001 4. エッセイ | Permalink
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