2010年2月 7日 (日)

2010年夏学季<自主ゼミ>のお知らせ

 北の国では豪雪が伝えられていますが、日が長くなり、季節は春に向けて動き出しはじめたように思います。

 2010年は、1910年の韓国併合からはじまった「Japanization」というべき世紀であった100年後、1945年の敗戦から「戦後国家」として駆動してきた65年後となります。まさに日本の近現代史を「現在(=2010年)」という視座から見かえし、さらにこの後の65年、100年がどのような未来を作り出すのか、そうした「時代」のありようの検証と展開を探っていくために、いい位置(juncture)に立ってるように思います。

 そこで、2009年度には、「大東亜共栄圏」と「平和学」の自主講座をそれぞれ夏季・秋季でおこないましたが、それに続いて、2010年夏季講座では、

  戦後国家「NIPPON」の現在
    ~文学に現れた廃墟から虚構の時代の現実~

 といったテーマで自主講座を開講します。

 期間は4月下旬から(4月24日か5月1日のいずれかが初講日)7月まで、毎週土曜日(全11回)に開講する予定です。
 
会場は、2009年度の自主ゼミの会場にした池袋勤労福祉会館(JR池袋駅西口徒歩4分)を予定としています。

 *詳細については、3月下旬に会場が確定した段階で、お知らせいたします。

 ところで、このごろ思うに、軽快に物事を<処理>するスキル(技術・方法)ばかりを褒めそやすことが、むしろ現在の「閉塞」を厚くしているのではないかということがあります。
 「知」とは、またその働きとは、「知識」といった量的なものにあったり、「情報」といった迅速を競うものにあったり、または「分析」といった事物や状況に「名付け」をおこなうものだったりするのではなく、むしろ「知恵」といった「働き=Action」に内在されているのではないか。
 こうした意味で、昨今のこの国で語られている「知の領域」を席巻しつつある「社会学」的考察には、物足りなさと限界が感じられます。結局、「社会学」的考察には、知ること(=名付けること)で納得し、それだけで「知」の権威性に立てこもり、その「閉域」で自足してしまっている、いわば大学での「学問=academism」が身にまとう卑矮さが透けて見えます。
 暗闇から光を求める意識を背景とする思索や考察。いわば哲学が実存的にもつ開放系の位置に自らを括りつける意味を再認していく。ここに「知」のありようの本質的な意味があるように、わたしには思えてなりません。

 とはいうものの、講座そのものは、小難しい論理的な隘路に入るものではありません。多様な意見や思いを受講生の皆さんとともに対話しながら、2009年度に続いて、自主ゼミを展開していきたいと考えています。
 多くの意識的な学生諸君や社会人の皆さんと、いろいろ討議や論考を深めていきたいと考えています。よろしくご参集いただければと存じます。

 *これとは別に、東大駒場キャンパスで全学自由ゼミナールも4月から行う予定です。
  

 

2月 7, 2010 2010年夏学季<自主講座ゼミ> |

2009年12月31日 (木)

2010年 新年の手紙

 2009年一年、おつきあいいただいた皆さんへの感謝を申し上げるとともに、2010年の新年の手紙をおくります。

 ちょうどいまから10年前、詩人茨木のり子は、『倚りかからず』という詩集を出しました。そこには、こんな言葉の詩がありました。

 倚りかからず

もはや できあいの思想には倚りかかりたくない

もはや できあいの宗教には倚りかかりたくない

もはや できあいの学問には倚りかかりたくない

もはや いかなる権威にも倚りかかりたくはない

ながく生きて 心底学んだのはそれくらい

じぶんの耳目 じぶんの二本足のみで立っていて

なに不都合のことやある 

倚りかかるとすれば それは 椅子の背もたれだけ

 2010年がいかなる時間を地上に降らすのか。それは、まったく予想もつかないことです。それは、個人個人によって違うだろうし、砂漠に住む民と海辺の民、極寒に住む人びと、都市の地下鉄のホームで、あるいはビルの狭間の路上で凍える冬をむかえる人びと、戦火のなか、やっと灯った蝋燭の炎にささやかな安息を迎えている人びと、それぞれにおいても、その時間はきっと異なったものであるでしょう。

 ただし、未来という時間は、そうしたすべての人びとに、平等にやってきて、否応なしに、ならば、その時間をいかに過ごすか、と聞いてきます。いわば時間という概念には必然的に、そうした人生的な哲学が先験的に宿っているものです。

 『倚りかからず』という詩には、人は、できあいの思想や宗教に引き込まれ、学問の権威にあこがれ、権力に添い遂げることで、自己の欲求を満足させようとするのではないか。それが穏やかに鋭い言葉となって表出されています。そして、茨木のり子が、見切ったのはそうした1999年という時点での「この国」の現実だったのだと思います。

 それから、すでに10年。毎年わたしたちは新年をむかえるたび、いったいどんな未来の時間を消費してきたのか。10年前に描いた未来とは、わたしたちにとって、どんな現実となっているのか。

 思うに、こうして新年をむかえるたび、今年こそ憎悪や差別が薄れ、飢えることもなく、「戦さ」もなく、人を殺すこともなく、平穏でさらに自由で、みんなと感激を分かち合えて、手を取りあって行動し、ともに微笑みあえる未来がくることを祈りつつ、やはり過去をたどれば、悲しく苦渋に満ちた現実が一方で大きな闇となって、ぱっくりと口を開けている現実を思わざるを得ません。

 そして、 「倚りかからず」という風に、人は生きてこなかったのではないか。

 2010年とは、21世紀となってその10分の1を使い切ったということになります。そして、このあとの10年、人びとは、またその未来をどんなふうに希望し、どんなふうに過ごしていくのか。

 いずれにせよ、2009年にさまざまなかたちで、おつきあいいただいたすべての方々に、輝くような2010年という時間が訪れますことをお祈りいたしますと同時に、これからもよろしくおつき合いいただけますこと、そして、さまざまな矛盾や困難をともに考え、行動に結びつけられますように、2010年もよろしくお願いいたします。

                                             八柏龍紀 

                                                            

                                                                                                                                         

 

12月 31, 2009 0. 緊急のお知らせ, 4. エッセイ |

2009年12月13日 (日)

12月14日は自主ゼミ最終講です!

 連絡が遅れまして、すみません。

 明日12月14日は、自主ゼミの最終講義(第10講)となります。これまで論考してきた「平和」という思想を、再度検証しつつ、その可能性についてお話しいたします。

 もう30年くらいにもなりますでしょうか、「揺らぎ」だとか「脱構造主義」、「ニューアカ」なんかが流行っていたころから、「思想」なんてものは、大学での「おたく」教師のファッションとでもいうべきものに堕してしまい、マジで「思想」の意味など考えようというのは、「重く」「暗く」「臭い」などとされてきたようにも思えます。その間に大学などで語られるものは、マックス・ウエーバー的に言えば、資本主義の「鉄の檻」に囲まれた「商売」的なスキル(=技能力)がもてはやされるようになり、危機に対処するありようも、その根幹を見極めてというより、対処療法的なものが、えらく中心的に膨張したように思われます。ま、それはそれでいいのかも・・・ですが、ぼく自身は、「そんなんで、いいのかな」とぼんやりと思い続けてきました。

 まして「平和学」なんかは、下町に住んでいた連中が、いきなり山の手高級住宅街に住むことになったみたいに、えらく「お高い」学問みたいだったり、実感のない、「学問する学問」みたいな感じで、まぁ、ヒマな人がやるんだろう的な感覚をいだいた向きもあるかもしれません。

 でも、これまで9回ほどの講義を積み重ねるうち、やはり歴史はその前景化された思想的営為を光として吸収し、変容してきたんだという思いが強くなりました。今回の講義でお話しした、ジョージ・オーウェル、ユマニェル・カント、マーティン・ルーサー・キング牧師、エドワード・サィードなどの思想を追うと、歴史性とともにその思想が、けっして「現在」という地点に留まらず、未来へとつながる駆動力を内燃エンジンのように備えているのがわかります。それも、高見からのものではなく、人とのつながりである他者性の問題、過去をどうとらえるかという記憶の問題、自分をいかに振り返るか、自分たちの未来には何があってほしか、何があってほしくないのか、そうした日常的であっても、いまにとどまらない動きのある思想が見えてくる印象を持ちました。

 明日は、いよいよ最終講義となります。扱うテクストはヨハン・ガルトゥングのものですが、それを一つの基軸としつつも、これまでの講座をもう一度振り返りながら、受講生の皆さんのご意見などお聞かせ願えればと考えています。

12月 13, 2009 0. 緊急のお知らせ, 2009年度自主ゼミ |

2009年11月28日 (土)

三田祭講演会のお礼と第九講のお知らせ

 11月21日の三田祭には、たくさんの方々においでいただき、ありがとうございました。時間が短くて、立場の異なる三者の議論が進まなかったこと、そこはとても心残りでしたが、「文学」の可能性については、少しばかりの示唆ができたかと思いました。当日いらっしゃった方には、心よりお礼申し上げます。

 次に自主ゼミですが、来週11月30日は、会館が休館なのでお休みいただき、次回の第九講は、12月7日(月)に開講します

 これまで「平和」について、その実存的な輪郭を明らかにすべく、戦争やテロとの関係性や平和が説かれる場面を踏まえて、「平和」の姿を彫り込むように論考してきましたが、次講は、シュリングの『朗読者』をテクストに、「記憶」という視座から「平和」を考えてみたいと考えています。

 受講生の皆さんには、ぜひレポートの提出をお願いいたします。

 早いもので、あと二回でゼミは終了です。これまで受講生の皆様がそれぞれ考えてきた「平和」の理念と、この後の戦争やテロの抑止をいかにするかというテーマを再度確認いただき。また積極的なご意見をいただければ幸いです。よろしくお願いいたします。

11月 28, 2009 0. 緊急のお知らせ, 2009年度自主ゼミ |

2009年11月19日 (木)

ふたたび慶應三田祭【戦後文学と<ポスト戦後>】講演会について

 下記にありますように、慶應三田祭【戦後文学と<ポスト戦後>】講演会(11月21日・土曜・519教室、16時~17時30分)があります。

 「文学かぁ~」といってしまえば、なんとなく入り口が狭い。それに本なんてあんまり読まない、ましてや小説などはほとんど読まない、「ケータイ小説」なども興味がない・・・なんて、実際、わたし自身も最近は海外の文学作品を読む以外、この国での小説や文学などほとんど触れることがないわけですが・・・、

 最近思うには、いまはネットで何でも「知ってる気分」、「わかった気分」でいることのできる世の中になったんだなぁ、って印象です。でも、みんなわかった気分でいることが、逆に不安となっていないか。ホントは深いところで知らないことがいっぱいあるのに、ネットという共通情報装置によって、「まっ、いいや」って感じでスルーしてないか。

 それに、「情報」って、ネタもとの装飾や作為に仕上げられたものなのに、それを鵜呑みにして、安っぽい「受け売り」なんてことに陥っていないか。ふっと、そんな気がしてなりません。

 そんな「世の中=日本=regionalじゃなくて都市部=お受験みたいな先送り幸福論社会=おたくチックな?=安っぽさ・・・」にあって、もしかして「文学」という、むしろ不可視な、曖昧な、象徴性が散りばめられた、それでいてどっからくるかわからない不確定さと読み手と近いようで遠い関係に、それぞれ個々の精神(大袈裟か!)や気分を滑り込ませてみるというのは、「今より」あるいは「ここより」ほかの場所に行ける足腰を作ってくれるんじゃないか。

 20代の頃は、よく文学作品に熱中していました。しかし、あれから、さんざんなことが多くあって、文学どころじゃない。ちゃらちゃらヒマな話なんてしているんじゃないとお叱りの向きもあるでしょう。もちろん、わたし自身のなかにもそんな後ろめたさが少なくない程度にありますが、もし現在の情報社会の閉塞感に一点の針穴を開けるとするなら、暗箱の中にあって、一点の針穴は、それがどんなに小さなものでも、外からの光は強く差し込んでくるように、文学とはなにかの光となるんじゃないか。そんな意味合いで、今度の講演会には臨んでみようと思っています。

 当日は雨との予報。時間もまたたく間に暗くなる16時から。講演会の条件としては、そんなによくないのですが、暗箱の中から見える一点の針穴のように、光が差し込めていけたら、いいなと思っています。

 皆さんのご参集をお持ちしております。

11月 19, 2009 0. 緊急のお知らせ, 1. 講演予定等 |

2009年11月18日 (水)

【第八講】のお知らせ

 次講は、11月23日(月)で、第八講となります。

 前講では、M・L・キングの思想をたどりながら、「非暴力」「不服従」運動のなかに垂線をおろし、その運動の意味とよってきたる思想のありようについて論考しました。

 対立と象徴、それらが相互にAlternativeな関係性を保ちつつ、相互に浸透し、相互が統合されていく思想の持ち方、さらに現実をいかに考えるか、過去・現在・未来と時間=歴史の中に存在する人間のありようを注視し、つねに現実からの変革と希望を根底においた思想形成のしぶとさに、宗教者としてのキング牧師の率直さを感じさせるものがありました。

 次講は、E・W・サィードをtextとして、可視・不可視、オリエント・オキシダントという対立項の現実を踏まえ、その上にいかなる思想的営為があるのか考えていきたいと思っています。次講もレポートをよろしくお願いします。

 また21日は慶應三田祭で講演会もございます。ぜひご参集いただければと存じます。

11月 18, 2009 |

2009年11月 8日 (日)

【慶應・三田祭】講演会のお知らせ!

        慶應義塾大学三田祭で講演会を行います!

 期日:11月21日(土曜日)で、三田祭2日目の<16時から17時30分>

 場所:慶應義塾大学三田キャンパス519教室

     *JR山手線田町駅、都営三田線三田駅下車徒歩8分

 テーマ:戦争文学と<ポスト戦後>

        ~「わだつみ」から「1Q84」まで

 当日は法政大社会学部教授の鈴木智之さんと、文芸評論家の陣野俊史さんとわたし(八柏龍紀)とで、文学の可能性と、「生き苦しくなっている?」現代社会の問題を話し合いたいと思っています。

 思うに現代の日本の社会とは、コピー(copy)とダウンロード(download)とライン(line)とノード(node)で組み合わされた社会、それがあっという間にできあがった感じがします。

 たしかに最近、自分の回りを見渡せば、面や時間(=歴史)で捉えることが少なくなり、「遊弋」と「無駄」、「異物」が排斥され、清潔でやたらに明るい、言ってみれば、角の取れた高層建築が建ち並び、チューブ型の空間道路が空中を幾重にも交差し、そのなかを無重力カーが走り回るような機能性と利便性に尽くされた近未来世界、几帳面で清潔感があふれ、テロも悪意もbleachされてしまっている世界。そんな世界へ向かっていっている印象があります。その一方で、取り除かれた暗さや陰惨さ、突然吹き出す悪意などはどこに溜め込まれているのか。

 そんなちょっと抽象的ではあるものの、人びとの向かう方向について、戦後および現代文学をネタにして語り合おうというのが、今回の講演会の目的らしい・・・と、わたし自身、勝手に思い込んでいます。    

 話は、けっこう空中を飛び回るかもしれませんが、「浮き世」の、あるいは「憂く世」にあって、なにかの摩擦点を見いだせるかなと思っています。人は、近くで見ていると物事をよくとらえることはできませんが、離れて見たり、ちがう視点から眺めれば、「あーなんだ」と納得することもよくあります。

 そんな講演会になれば・・・と願っています。

 なんたって、三田祭! 賑々しくご来場のほどを!

 

11月 8, 2009 0. 緊急のお知らせ, 1. 講演予定等 |

2009年11月 3日 (火)

自主ゼミ・第六講について(11月9日講義)

 第五講では、「非戦論」と「戦争」というテーマで、内村鑑三の「非戦論」などをテクストにして、宗教と戦争の関連についてお話ししました。宗教はキリスト教、イスラム教などを問わず、平和主義を標榜する一方で、つねに戦争のお先棒をかついできた印象があります。いま現在も、「Jihad(聖戦)」の名目のもと、テロが頻発している現実があります。その理由はなぜなのか? それを宗教そのものが内包する「Dogma」という視点と「Deductive(演繹的)」な論理に着目して論考し、さらに宗教的粉飾をまとった政治権力のありようも検討しつつ考えてみました。

 さらに、ハンナ・アレントの分析を借りて、「Justification(正当性)」と「Legitimacy(正統性)」の区分の視座から、暴力が結局は不当行為であるが故に、つねに「正当性」を主張しなければならないこと、その反面、権力はつねに正統性を求められることの相互の関係を考えてみました。

 講義は、ますます「平和」という意味へ深く垂線を降ろし、その実存的な意味について論考を進めてきています。次講は、チェ・ゲバラの「革命戦争日記」をテクストに、権力への「抵抗」について、武力反抗の正当性という観点から考えてみたいと思います。

 はたして内村鑑三らの説く「無抵抗主義」とゲバラらのキューバ革命における「ゲリラ」戦争の正当性をどのような「秤」にかければいいのか? そうした問題も含めて、「平和」へのアプローチをはかっていこうと思います。

 それと、11月7日(土)は、いささか早いもののゼミコンを開催するとの運営学生の提案がありました。これまでのゼミでのさまざまな疑問点をお互いに語るいい機会だと思いますので、受講生の方々のご参加をお待ちしております。

11月 3, 2009 0. 緊急のお知らせ, 2009年度自主ゼミ |

2009年10月24日 (土)

自主ゼミ【平和論】の10月26日は休講です!

 10月26日は、会場の都合により、休講です。

 第五講 「非戦論」と「平和」について~内村鑑三が説く「非戦」の論理について~は、11月2日(月)に開講されます。お間違えのないように、よろしくお願いします。

 ところで、今回の「大人のための歴史講座」ですが、東京近郊にお住まいではなく、また時間的に講座を受講できない方が、いらっしゃるかと存じます。本来なら、そのためにインターネット通信などを通じて、配信することも、今では可能になっているようです。そうしたskill(=技術・方法)も今後、検討する必要があるように思いました。

 文化系における大学教育が「専門性」という美辞麗句で飾られ、体系的、あるいは基礎的思考を育成する場所になっていない現実。実際、学生は単位を取るため、「学問」を単に目的化していますし、また少子化の中、大学が高等教育の機関とはなり得ず就職斡旋業者のような状況になってきてさえいます。しかし、そのなかでも大学はまだ、権威主義を振りかざしているように見えます。

 大学教育はいま、転換期に直面しているのかもしれません。たしかに、昨今、そうした学問や研究の現場において、さまざまな自由なアカディミズムが求められている時代になってきています。わたしたちの自主ゼミの試みなども、まさにそうしたものの一つです。

 もしかして、ネット配信は、そうした「大学」教育の権威性や閉鎖性を、切り崩すこととなるかも・・・。そんなことも考えられます。まだ、わたし自身、その現実をただしく掴んではいませんが、もしかしてとも思います。

 それはともかく、とりあえず第五講の開講日については、ご注意いただけますようお願いします。

10月 24, 2009 0. 緊急のお知らせ |

2009年10月17日 (土)

【第四講】のお知らせ

 前講では、カントの『永遠平和のために』をテクストとして、「平和」への実存的な意味を論考しました。カントが生涯過ごした東プロイセンのケーニヒスベルグの多元的な文化構造をヒントに、カントの「平和」への思想を追うという試みは、とても大切なことにように感じたしだいです。

 ところで、次講【第四講】では、クラウゼヴィッツの『戦争論』をテクストにして、戦争と暴力の問題について論考します。言うなれば、平和とは「かりにそれが戦争といった暴力にかこまれたものであっても、台風の目のように暴力から逃れている状態」であるとも言えます。したがって、戦争と平和という対置のありようも含めて、戦争、それにともなう権力、および暴力について考えてみることは重要に思います。

 10月19日(月)、池袋勤労福祉会館、17時半から。また、今回のレポートもよろしくお願いいたします。

10月 17, 2009 0. 緊急のお知らせ, 2009年度自主ゼミ |